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【満田研究室ブログ】

佛教大学社会学部満田久義研究室通信

①【アチェの教訓】被災者の証言(1)

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アチェから7年、今、われわれ東北地方に大津波による悪夢が再来す。
アチェの教訓を、そして東北の経験を後世に語り継ぐ。
2011/03/11 頑張ろう東北、変ろう日本、目指そう新しい世界!
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AIアチェ追悼と愛惜2枚-1-2
(本稿は、満田久義・川勝健志・Bobby M. Syahrizal(2005)『アチェの追悼と哀惜ーマラリア診断キットを送る国際支援活動ー』社会学部論集第42号57-76頁を一部修正加筆し再録したものである)

アチェ被災証言(1)
語られるアチェ津波被災の真実


証言1「後ろを見ちゃダメ!走って走って!」

(Sumiatさん:44歳女性、Antonsidiq君:13歳男性、2005年9月3日、バンダ・アチェ市、ムラクサ(Meuraxa)村トンコール(Tongkol)地区にてインタビュー)
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 「後ろを見ちゃダメ!全力で走って走って!」という言葉が最後だった。最愛の末娘を失ったスミヤットさんは、津波が襲ってきた状況を次のように語った。
 夫とともに魚市場にいた彼女は、突如起きた激しい揺れというよりも、地面が爆発したようなショックを受けた。夫が「家に戻ろう」と言ったので、市場からバイクで数分ほどの距離にある自宅へ急いで戻った。何度も激しい揺れが続く中、必死で探していた子供達を家の近くで見つけたまさにその時、これまで見たこともないような異変が目の前に現れたという。海が数キロにもわたって引潮し、乾いた土地が地表に現れた。そして、海底がすっかり姿を現し、たくさんの魚が飛び跳ねているのがわかった。
写真1-1
母親は我が子の哀惜を、あふれる涙を拭うこともなく胸かきむしり語り続けた

  すると突然、巨大な津波が圧倒的な力で押し寄せてきたのである。迫りくる大波の恐怖に必死で海岸から駆け出した彼女のすぐそばには、彼女の服をつかんで走る7歳(小学校2年生)の末娘が走っていた。しかし、まさに大津波が襲い巻き込もうとした瞬間、振り返ると末娘が5メートルほど後方で暗黒の波に引きずられていくのが見えた。次の一撃で、彼女もありとあらゆるものが波にのみこまれてしまった。数分か数時間か確かではないが、気がつくと、彼女自身は水面を埋め尽くしている無数の死体と瓦礫のわずかなすき間に首だけを出し、ただ呆然と漂っていたという。
 彼女はインタビューのあいだずっと、こぼれ落ちる涙をぬぐいながら、絞りだすような慟哭とともに、「あの時、子供を救うために何かできたのではないか」、「いや、あの娘の手をしっかり握っておいてやればよかった!」と、あのときの心情を繰り返し語った。耐えがたき苦痛に、毎日毎日打ちひしがれている彼女は、44歳という年齢とは思えないほど覇気や生気を失い、夜叉の面のように見えた。

写真1-21
腕の傷は板切れにしがみついた時に生肉がもぎ取れたことによる。腕の傷は消えても心のトラウマが消え去ることはない

 母親のスミヤットさんに寄り添うように立っていたアントンシディック君は、津波被災の状況、特に体の至るところにある痛々しい無数の傷跡について話し始めた 。
 津波が襲ってきた時、車の中にいた彼は、車内に流れ込む大量の水で強引に車外に放り出された。記憶は定かではないが、その後何か板切れのようなものに必死にしがみついていたのだという。体中の裂傷は、洗濯機の渦のような濁流の中で、色々な瓦礫にぶち当たった時に負ったものである。何かに必死でしがみついた状態で4日間も水の中を漂っていたため、特に両肘内側の関節部分は、肉片がえぐられ激しく損傷している。病院に運ばれた時には、すでに傷口から感染症を引き起こし、もはや腐敗した部分を切除せざるを得ない状態になっていた。運ばれた軍の仮設病院には医者も看護婦も医療器具もすべて不足していたため、そこで手術を試みたが、十分な治療も看護も受けられず、生々しい傷跡が残ってしまったのである。しかし、彼の脳裏に刻まれた津波のトラウマは、その肉体に刻み込まれた傷跡よりも、もっともっと深いものであろう。

写真1-31
津波で流され、土台だけの我が家になっても、再建するというアントン君

 アントンシディック君は、我々をかつて彼の家があった場所に連れて行ってくれた。そこに残されていたものは、一本の2メートル余りの枯れ木と数平方メートルの10センチくらいの高さの土台のみだった。家の土台には、“RUMAH”とペンキで書かれていた。その意味は「わが家」だ。
  町の中心から北西に車で20~30分のところにある海岸線沿いの村、トンコールは、ほんの数ヶ月前までは、多くの家々が軒を連ねていた。しかし今日では、津波によって何十キロにもわたって、ほとんどの建物が壊滅し、すべて掃き流され立ち木1本たりとも、まともなものはいっさい残っていない。そして今、海風がその被災地をものすごい勢いで、「ゴーッ」という音とともに突き抜けている。
 スミヤットさん家族は、別れ際に手を振り、はっきりとした口調で言った。「私たちは、このような津波の恐怖を味わっても、どのようなことがあっても、決してこの故郷を離れない。なぜなら私たちは、この地で生まれ育ち、結婚、出産し、子供を育ててきたのだから」と。
 すべてが荒野と化した家跡の傍らには、もうハマナスに似た紫色の花が一輪咲いていた(つづく)。


ACEH橋の下死体2
大津波で流された無数の屍と瓦礫。バンダアチェ市の目抜き通りの大橋の下(2004年12月26日震災直後)。
そして今、東北各地でも。。。。


アチェの津波痕Nothing left
数千人が平穏に暮らしていたムラクサ地区。フェリー乗り場から遠望した地獄絵はただただ広がる荒涼とした瓦礫の更地。右端が昨日まで車が忙しく行きかった幹線道路。Nothing Left!
そして今、東北各地でも。。。。


アチェの被災地と亡骸
津波が逆流したバンダアチェ市内の川岸に、簡易搬送用バックで安置される遺体の列。
そして今、東北各地でも。。
。。。


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  2. NO MORE TUNAMI、アチェ、そして東日本

帰国報告

帰国報告

本日、早朝日本に戻りました。しばらくブログ環境から離れていました。
海外から見た日本の現状について詳細は追ってお話ししましょう。

強行日程でしたので、睡眠します。


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  2. ちょっとブレイク
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プロフィール

佛教大学社会学部満田研究室

Author:佛教大学社会学部満田研究室
【本ブログの休止と新ブログ『マラリア通信(仮称)』のお知らせ】
満田研究室ブログは、2009年満田教授の海外研修の時、満田ゼミ生との情報交流のために開設された海外通信ブログ。インドネシアのマラリア制圧に関する情報からエコツアー、原発、感染症パンデミックなどのホットな話題をブログ形式でお送りしてきました。
満田教授は、2009年4月から半年間のドイツ・オスナブリュック大学日本研究所とイ ンドネシア国立マタラム大学医学部での海外研修から帰国。さらに10月から3月までの京都大学大学院経済学研究科での研究員生活を終え、2010年4月からは佛教大学社会学部公共政策学科教授に復職しました。
2011年からはマラリア制圧のために、セレベス、パプア、アロール島などでマラリア医療支援活動を継続。また、エクアドルのアマゾンジャングルにある世界で最も生物多様性が高いヤスニ国立公園の自然保護活動や、ベトナム政府および国連機関とのベトナム農村での持続可能な観光に関する共同研究も実施しました。
2013年12月からセレベス島北端のバンカ島で中国企業による鉄鉱石開発からジュゴンを守る国際NPO[ジュゴン環太平洋ネットワーク]の創設準備。沖縄辺野古沖のジュゴンに関する基本情報を収集し、ジュゴン保護に関する研究を実施しました。
2019年3月、佛教大学社会学部を定年退職(同大学名誉教授)。 9月からインドネシア国立マタラム大学医学部客員教授として、ロンボク島でのマラリア撲滅のための社会貢献活動に尽力する予定です。

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